100年後も続くチームを作る ―ドラゴンボートに魅せられた「東ドラファミリー」が目指すもの

ドラゴンボートは日本においてマイナースポーツだ。しかしそこには、部活に熱中する少年のような目をして、周りをぐいぐい巻き込んでいく大人たちがいた。

彼らは何者なのか。突き動かすものは何なのか。今年のナンバーワンクラブチーム、東京龍舟(とうきょうりゅうしゅう)の方々に話を聞いた。

ドラゴンボートチーム東京龍舟のみなさん
ドラゴンボートチーム 東京龍舟のみなさん

500人のバーベキュー
2時間で180キロの肉を焼く

10月最初の日曜日、東京都江戸川区の大島小松川公園では、約500人が参加するバーベキューが行われていた。肉が焼けたらすぐさま取ろうとコンロの前に陣取る人々で、朝の地下鉄ホーム並みに混み合う会場。焼けた途端に次々と箸が伸びてきて、あっという間に消えていく肉。すぐさま次の肉が大胆に網に載せられる。そうしてわずか2時間で180kgの肉が焼かれ、500人の胃袋に収まった。

「漕ぐ、飲む、焼く、食う!」がテーマの東大島ドラゴンボート大会。ドラゴンボートの楽しさを知ってもらうこと、参加者同士の交流を深めてもらうことを目的に、レースと打ち上げのバーベキューが行われる。企画・運営は東京龍舟だ。

準備は1カ月前から始まる。アマゾンで一斗缶を28個買い、半分に切ってバーベキューコンロを手作りするのだ。レースが終わる午後2時から、バーベキュー会場で火を使える午後4時の間に、180kgの肉を焼くのがミッションだ。

去年は時間内に焼ききれなかった。原因の一つである火力の弱さを解消すべく、今年は炭と網の距離を近づけることにした。そのために、一斗缶のふちを5センチ折り込む地道な作業を行った。当日は、参加者が到着したらすぐ食べられるように、先に会場入りして焼き始め、休むことなく焼き続けた。東京龍舟バーベキュー班の活躍により、あたりは煙と熱気に包まれた。

東大島大会に出場したGooRakuDragons
東大島大会に出場したGooRakuDragons

9回目の開催となる今年、レース参加者は過去最高の約600人を数えた。

参加チームは様々だ。香港のチーム、横浜の消防のチームもあれば、個人参加の人たちで作った急ごしらえのチームもあった。Googleと楽天の社員による合同チーム、GooRaku Dragonsも参加した。インド、中国、カナダ、アメリカ、日本など出身はバラバラ。ドラゴンボート歴もバラバラだ。

 

【動画】画面手前の艇がGooRakuDragons まだ初心者でも、1レース目よりも全員の動きが揃ってきた2レース目

楽天のドラゴンボート同好会は今年発足したばかりで、殆どが初心者。レースには勝てなかったが、初めて参加したメンバーは「身体は痛いけど、楽しかった」と笑顔を見せた。

20人で同じボートを漕ぐ行為は、彼らに国籍や会社を超えた一体感をもたらした。レース後、全員で輪になり「Go! GooRaku!」と連呼して両手を上げ飛び跳ねる謎のダンスが始まった。
部活の夏の大会と文化祭が一緒にやってきたような一日に、大人たちは無邪気にはしゃいだ。

左:Googleのイーライさん  右:レース初参加、楽天の小野さん
左:Googleのイーライさん 
右:レース初参加、楽天の小野さん

東京龍舟レース班は、スムーズな進行のために会場中を走りまわっていた。自分たちはレースに出場せず、初心者チームのサポートをし、裏方に徹した。経験の浅いチームでも、手作りのこの大会に参加して「楽しかった」と感じてもらえるのが嬉しいのだという。

 

2,000年の歴史を持つ
ニュースポーツ・ドラゴンボート

世界の競技人口約1,000万人とされるドラゴンボートは、紀元前278年に中国で生まれた世界最古の手漕ぎ舟の競漕だといわれている。その頃まだ弥生時代だった日本にドラゴンボートが伝わるのは、実に1,500年以上を経た今から600年ほど前の沖縄。その後、約350年前には長崎にも伝えられ、沖縄では「ハーリー」長崎では「ペーロン」と呼ばれている。

当初は伝統行事だったが、1976年の香港国際龍舟祭をきっかけに、ニュースポーツとして見直される。ルールや競技道具の世界共通基準が定められ、オリンピック競技化を目指すようになった。

龍の頭と尾の装飾がついた艇で、通常200mから2,000mの、公式ルールに定められた距離で速さを競う。

20人の漕手は左右2列に並び、船尾には舵取りが乗る。船首に据えられた椅子に後方を向いて座り、太鼓でリズムをとり大声で檄を飛ばすのは太鼓手だ。スタートからゴールまで、どこでピッチをあげるのか、どこで長いストロークに切り替えるのか、指示を出すキーパーソンといえる。

2016年日本国際ドラゴンボート選手権大会 TOKYO DRAGON艇
2016年日本国際ドラゴンボート選手権大会 TOKYO DRAGON艇
総勢22人が乗り込むスタンダード艇は長さ12.4m、前後が細く中央の最大幅は1.16m

ところで、この一風変わったボートや太鼓はどこに保管すればいいのか。どこで練習すればいいのか。チームを作った時に直面する課題だ。Googleや楽天のチームは勝どきマリーナで練習しているが、他に練習できる施設がない。大会前は予約が集中、好きな時に好きなだけ練習できるわけではない。チームでの最終練習が、大会の1カ月も前になったこともある。それ以降の予約がとれなかったのだ。騒音の問題から、太鼓を叩いての練習もできない。

東京龍舟会長であり、日本ドラゴンボート協会JDBA)理事も務める江畑直紀さんは、海の森水上競技場にドラゴンボート普及の可能性を見出している。
「拠点が大事なんですよね。川辺に大きなボートを置いて練習できるところが都内にあまりないんですよ。使いやすいところ、ドンドン音を出してもいいところが必要」競技環境を改善するため、オリンピック・パラリンピック準備局に、2020年以降の施設利用についての提案をした。

 

賞金目当ての大学時代から一転
陸(くが)に勝ちたいとチームを強化

江畑さんは神戸大学時代、レーシングカヤックをしていた。体育会カヌー部では、夏休みの1ヵ月半、一軒家を借りて合宿を行った。「先輩は2階の部屋を使いますが、新入生は土間兼台所で、1人一畳のスペースに布団を敷いて荷物も置きます。狭いので隣と布団が重なり合うんですが、重なった時は2年生が上、1年生が下なんです」。

合宿の合間に、大阪で開催される国際ドラゴンボート選手権大会に出場するのが毎年恒例だった。1993年、2回生の時に男女混合選手権に出たのが、江畑さんとドラゴンボートとの出会いだ。

「ビバ!ぷよぷよビバビバ!」という名前のチームが、神戸大学カヌー部である。朝から晩までカヌーを漕いでいる現役大学生たちは、もちろん優勝、賞金を手に入れた。「当時10万円だったかな。それを合宿費にあてました」。

ところが1995年、男女混合の部は賞金が廃止された。そこで男子の部に出場、彼らはまたしても優勝し、賞金は合宿費になった。

この時の賞金は、期せずして20年を経て実を結んだ。当時賞金目当ての一学生だった江畑さんが、今はJDBAの理事としてドラゴンボートの普及に尽力している。

大学時代の江畑さん
大学時代の江畑さん

大学卒業後、職場の先輩に頼まれてドラゴンボートの大会に出た。カヌー経験者が集まってはいたが、卒業して10年以上経つベテラン勢が幅を利かせ、練習もせずに年に一度集まって漕ぐようなチームだった。そのチームで2年間漕いだが、現役時代に大阪で勝っていた相手に全然勝てなかった。江畑さんは、強くなるためにしっかり練習しているチームで修行をしようと、東京龍舟の門をたたく。

ちょうどその頃、東京龍舟では若くてパワーがあるメンバーを集めており、カヌー経験者の江畑さんは条件にぴったりだった。そんな人材を、当時の会長はチームの中枢に引き入れた。「江畑くんよくきたね、君若いし漕げるからぜひ頑張ってよ」と試合に連れていき、「君が仕切って練習メニュー考えて」と役割を与えた。強豪チームの練習だけ体験したら辞めようと思っていた江畑さんはすっかり乗せられ、気が付いたら副キャプテンになり、翌年にはキャプテンになっていた。

どうしても勝てないチームがあった。相生(あいおい)の陸(くが)ペーロンチームだ。兵庫県相生市は長崎同様ペーロンが盛んで、街を挙げて自治会対抗の大会も開催している。「陸は、ペーロン版スクールウォーズみたいなんです。エネルギーの余っている若者をつれてきて、青春をパドルにぶつけろみたいなチームなんですよ。このチームが悔しいぐらい強いんです。うちはおじさんばっかりだけど、何とか勝つために僕もムキになりました」カヌーの同期や後輩を集めてチームの強化を図り、2001年に初めて陸に勝つことができた。

しかし、2002年から2004年まで、1位の座は再び陸ペーロンチームに独占された。陸は世代交代をしているので、強さを維持できるのだという。

何年かに一度勝てるのが嬉しくて、そのためにチームを強くして、江畑さんはどんどんドラゴンボートにはまっていった。学生時代に熱中したカヤックからは、すっかり遠ざかっていた。「カヤックでは一番大事なのは個人のタイトルで、勝てば自分は嬉しいけれど一緒には喜べない。クラブ内がライバルなんです。でもドラゴンボートはみんなが純粋に一緒に喜べる」。

2001年に1軍が優勝した時は、1軍から3軍まで乗っているボートに関係なくクラブ全体が喜んだ。「その時の一体感がものすごく気持ちいいんですよ」目を細め、思わず前のめりになる。

 

日本代表、復帰組、様々な人が集う
東ドラファミリー

ドラゴンボートが2018年アジア競技大会の正式種目に決定したことにより、JDBAは全国から選手を集めることにした。東京龍舟からは、男性4人女性1人が選ばれた。

アジア競技大会は、四年に一度開催される、40数ヵ国9,500人以上が参加するアジア版オリンピックだ。「いつかドラゴンボートがオリンピック競技になってほしい。アジア競技大会で正式種目になったことは前進だと思います」東京龍舟所属で日本代表候補の若狭和也さんは言う。

若狭和也さん
若狭和也さん

少年時代はサッカーに明け暮れた。ドラゴンボートと出会ったのは、高校卒業後、カナダに語学留学をしていた時のこと。バンクーバーのドラゴンボートフェスティバルに友人と参加した。練習もそこそこにレースに出場、とにかく楽しかったという。

帰国後、誘われてドラゴンボートチームに入ったが、2年後にはレクリエーション的な漕ぎ方に物足りなさを感じるようになっていた。「もっとガツガツ漕ぎたくて、東京では名の知れたチームだった東京龍舟に移籍しました」そして、日本代表を目指すまでにドラゴンボートにはまっていく。「いろんな人に会って刺激を受けて、努力して、勝った時の達成感はたまらないですね」。

2016年日本国際ドラゴンボート選手権大会 手前が男女混合選手権優勝の東京龍舟艇
2016年日本国際ドラゴンボート選手権大会 手前が男女混合選手権優勝の東京龍舟艇

東京龍舟は強豪チームだ。2016年日本国際ドラゴンボート選手権大会では、男女混合選手権とシニア選手権でダブル優勝し、翌年中国で開催される世界大会の出場権を手にしている。さらに、琵琶湖大会では女子の部で優勝している。活躍しているのは、男性アスリートばかりではない。

「男子みたいに漕げるわけではないけれど、自分なりの力を出してゴールを目指します。今、少しずつ漕ぎ方を変えているところで、どんどん速くなっているんじゃないかな」鳥取でレースラフティングをしていた山内裕子さんは、ドラゴンボートを始めて4年になる。「自分が変わっていけるスポーツだと思います」まっすぐ前を見て言った。

北川由季さんは、大学時代レガッタをしていた。卒業後、また何かスポーツを始めたくなり、ドラゴンボートをふと思い出したという。「東南アジアに旅行した時に見たのを覚えていたんだと思います。テニスやゴルフはやりたいと思ったらいつでもできそうだけど、ドラゴンボートはチャンスがないとできないと思ったから」それから13年、今では「ドラゴンボートと東京龍舟は、無いのが考えられない」と言う。

東京龍舟は、トップを目指し毎週末練習し、冬場も漕ぎこみ、海外遠征もする。まさに体育会のチームだ。

しかし一方で、出産で何年か離れていても、子育てが落ち着いてまた戻ってくるメンバーもいる。ここは引退のない部活なのだ。19歳から64歳までが所属するチームでは、お互いを親しみを込めて「東ドラファミリー」と呼ぶそうだ。

東ドラファミリー
東ドラファミリー 最前列左が現在の江畑さん

 

チーム崩壊の危機から学んだこと
人と人とのつながり

江畑さんはキャプテンだった頃、チームを強くするために、練習内容やメンバー選定に重きを置いていた。作ったスローガンは「10年後も勝てるチーム」だ。会長になってからもしばらく意識は変わらなかった。しかしチームの空気は少しずつ変わっていった。

2006年に久々に優勝したときはチーム全員が喜んだ。しかし、2007年から気持ちに温度差が出てきたという。2008年には、喜んだのは優勝した艇に乗っていたメンバーだけだった。

そこからはバラバラになって崩れるのは早かった。他のチームへ移っていく人もいた。江畑さんは、組織の脆さを痛感した。

それでも、チームのことが好きなメンバーが何人かいて、勝てなくてもみんなで一緒にやっていこうという空気がうまれた。辞めたメンバーにも、いつでも戻っておいでと声をかけた。チームを復活させたのは「人と人とのつながり、暖かさみたいなもの」だと江畑さんは振り返る。

チームの状態が悪い時は、勝てないのは下手なお前のせいだと責める空気があったという。しかし今は、強いチームであり続けるには新陳代謝が必要だとメンバーが理解している。新人を暖かく迎え入れ、一から教え、みんなで頑張っていこうとしている。

江畑さんは想いを込めてスローガンを変えた。「100年後も続くチーム作り」だ。「10年後から100年後に変えました。続くことが大事なんです。いい時悪い時があるけれど、どこかで勝てるだろうと。100年後も続くチームの土台を作らないといけないよね」技術の向上もしつつ、運営、お金、拠点、地域との良好な関係を整えていくことが必要だという。

仲間とハイタッチする江畑さん
仲間とハイタッチする江畑さん

 

江戸川区発で競技普及を目指す
100年後も続くチームである為に

東京龍舟は、2016年119日現在、会員数86名の東京で一番大きいドラゴンボートチームだ。トップクラスのクラブチームとして活動するだけでなく、競技普及をミッションだと考えている。

「『ドラゴンボートって何?』って言われるのはやっぱり寂しい」江畑さんは、関東でドラゴンボートを盛り上げようと決意した。

2004年から拠点を置く東大島艇庫のある江戸川区に提案し、「江戸川区・ドラゴンボート大会」開催を実現した。子供会やPTAで回覧板を回し、自治会チームが参加する地元の大会だ。

過去2回の参加者は、自治会役員のシニアが中心だった。「2回やると、おじいちゃんばかりじゃ勝てないとわかったみたいです。少しずつ若い人に声をかけるようになっています。参加者の年齢が下がっていけば、あと5年10年したら、相生みたいになるんじゃないかな」地域との結びつきを、継続的で強固なものにしたいと考えている。

かつてなかなか勝てなかった強豪チーム、陸ペーロンチームを生んだ相生のように、新陳代謝のあるチームを生み出す環境を作ろうとしているのだ。それが、100年後も続くチームの土台になる。

東大島艇庫がある旧中川は、釣りを楽しむ人やカヌーを練習する人もいる穏やかな場所だ
東大島艇庫がある旧中川は、釣りを楽しむ人やカヌーを練習する人もいる穏やかな場所だ

今年が3回目となった、江戸川区・ドラゴンボート大会。1回目と2回目の優勝は小松川警察署のチームだった。

最初は警察だということを隠していたという。「みなさん若いし体格もいいしどういう方なんですか?」とたずねても、警備会社だという答えだった。ところが、東京龍舟にも警察官がいて、ドラゴンボートで優勝したことが社内報に出ているのを発見、身分が明らかに。今年は開き直って、警視庁のマスコットキャラクター・ピーポくんが会場にやってきた。しかし、ピーポくんの応援むなしく、新規参入してきた小松川消防署が優勝した。

みんなに応援される地元の名物大会になることが当面の目標だが、さらに先を見据えている。江戸川区民大会を都民大会にして地区対抗に、それを海の森水上競技場で開催するという野望だ。

江畑さんは、新しくチームを作る人を大切にしたいと言う。「東ドラファミリーは、すぐ『うちのチームに入りなよ』って誘うんですが、僕は協会の立場からすると、新しいチームを作ってくれると嬉しいです。そこに新しい人間の輪ができて、頑張って20人揃えようとするじゃないですか。それがドラゴンボートの普及になる。最後全員東京龍舟に入ったら、レースが成立しないじゃないですか(笑)」。

チームにはそれぞれ歴史や個性があって、それが大事だと言う。「うちは強いチームを目指すけれども、家族的な温かみも残しながらというのをみんなが理解してくれた」100年後も続くチームであるために、もっと多くの人と一緒にドラゴンボートを楽しむために、「東ドラファミリー」は漕ぎ続ける。

優勝レースから陣地に戻る選手を迎え入れる東ドラファミリー
優勝レースから陣地に戻る選手を迎え入れる東ドラファミリー

 

参考
日本ドラゴンボート協会 ドラゴンボートの歴史
東京龍舟 公式サイト

 

 

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